“未来”への宝 鳥取は交流の拠点

日中友好30周年後の進路・新春寄稿「北東アジアの平和と発展」

日本海新聞 2003年1月3日7面

 「いかに社会情勢が変化しようとも、何世代も努力の積み重ねによって実現した平和を維持していくことが大切です」
 
 二十一世紀の中国を担い立つ新リーダー、胡錦濤総書記の言葉である。
 
 私が胡総書記と初めてお会いしたのは、十八年前の春。中国青年代表団の団長として来日された折であった。当時、総書記は四十二歳。
「両国の青年のため、そして両国の美しい未来にために、さらに努力していきたい」との凛然たる声が、今も私の胸に響いている。

 周恩来総理をはじめ先人たちが誠実と信念をもって開いた日中国交正常化から、三十年が過ぎた。さらに北東アジア全体の平和を築きゆく、新たな三十年の幕を開いていきたいものだ。
                 

 この北東アジアとの友好親善に、貴重なモデルを示されてきたのが、鳥取県である。
中国の吉林省、ロシアの沿海地方、韓国の江原道、モンゴルの中央県などと交流を深めながら、それぞれの地方行政と「国際交流・協力サミット」を、一九九四年から開催されてきた。
 私が江原道の金※※知事と東京でお会いした折も、このサミットが話題となった。
 江原道は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との休戦ラインで分断され、長らく緊張が続いてきた地域である。
 北東アジアの平和と連帯は、私にとっても、三十年前にトインビー博士と対談して以来、最重要のテーマであることを申し上げると、金知事は深くうなずかれ、こう語られた。
 「江原道を??分断の一番地?≠ゥら??統一と平和の一番地?≠ノしたいのです」と。
 韓・朝鮮半島の平和は、北東アジアの平和の核心でもある。日本は、そのために、もっともっと積極的に行動すべきであろう。
 「向こう三軒両隣」を最も大切にし、仲良くしていくことは、人間としての普通の道理であり常識であるはずだ。もはや国家の論理や経済の利害だけでは、袋小路に陥ってしまう。
 ゆえに、地道な民間交流、地域交流の拡大が一段と大切な時代だ。
 赤 岬に立つ江原道との「交流記念碑」には、「日本海(東海)を眺めながら、我々の子孫が交流の豊かな実りを収穫するであろうと信じ」という金知事の言葉が刻まれている。
 ◇
 互いに隣人として、また同じ人間として、平等に分け隔てなく接する心─―そこに、崩れざる平和への第一歩があるのではないだろうか。
 
 鳥取県では、北朝鮮にもサミットへの参加を呼びかけるなど、地域間交流の道を勇んで探ってこられた。
 
 さらにまた、日本の自治体としては唯一、境港市が、北朝鮮の元本市と友好提携を結ばれている。漁業や子どもたちの交流を通しての??ふだん着のおつきあい?≠セ。
 
 日本海新聞でも「北朝鮮は一般に『顔が見えない国』と言われる。だが一番じかに『顔』を接することができるのが地方外交のチャンネルだ」と論じられていた。私は強い共感を覚える。
 
 この境港市の取り組みは「ニューヨーク・タイムズ」で紹介されるなど、国際的にも注目を集めてきた。
 
 「志のある所動必ずありで、我々の進路を何物がさえぎろうとも、常に力行惑わざるの意気と、日新の工夫をもって…我々の与えられたる使命をまっとうせんと欲するのみである」
 
 これは、日本海新聞の前身である「鳥取新報」が一万号を迎えた時(大正九年)に掲載された一節である。
 
 北東アジアの平和を展望する上で欠かせないのも、こうした意気と工夫と使命感をもって、次代を担う青年たちの友情と連帯の道を、断固として開いていくことであろう。
 
 それは、周恩来総理から私に託された遺言でもあったといってよい。
 
 逝去される一年前(一九七四年十二月)、寒い冬の夜であった。場所は北京の病院。ガンの術後まもなくの周総理が、医師団の制止みにもかかわらず、私と会う時間をつくってくださった。
 総理は七十六歳、私は四十六歳であった。

 御礼の御挨拶を一言だけと思っていたが、総理は中日友好とアジアの未来について、凛とした声で話を続けられた。

 そして、「今後、われわれは世々代々にわたる友好を築かねばなりません」と訴えられ、だからこそ若い私に期待したと語られたのである。
 
 会見の翌年、新中国から日本への初めての留学生六人を創価大学に迎えた。春爛漫のキャンパスを一緒に散策するなど、思い出は尽きない。秋には私の提案で、周総理を偲ぶ「周桜」の植樹が行われた。
 
 私は、中国をはじめ海外から、若い世代の方々が、文化交流や教育交流の機会を通して来日される折には、できるだけ時間をつくってお会いするようにしてきた。それが、三十歳も若い私を自らの命を削ってまで迎えてくださった、周総理のご厚情に応える道であると誓ってきたからである。
 
 若き胡総書記と初めてお会いした時も、諸行事の予定を変更して、青年代表団をお迎えした。二度目にお会いした時(一九九八年四月)、開口一番、総書記の方から「あの時、わざわざ地方から帰って来て、私ども代表団と会見してくださったことを印象深く覚えています」と言われ、恐縮した。私は申し上げた。
 
 「政治は変化します。経済にも浮き沈みがあります。友好に『永続性』をもたらすのは『青年友好』であり『民衆交流』です」
 
鳥取県には、青年交流についても主体的に進めてこられた伝統がある。
 
 その精神は、三年前に鳥取での国際交流・協力サミットで採択された米子宣言でも「次世代を担う子どもや青少年による文化、スポーツなど様々な分野における交流の推進、大学間の交流を行う」と謳われている通りだ。

 昨年だけでも、韓国江原道での「東アジア青少年年芸術祭」、ロシア沿海地方での「子ども世界サッカーカップ選手権」への参加、また中国河北省からの日本語学習のための学生受け入れなど、多彩な交流が推進されてきた。
 
 若い世代が友誼の絆を深め合うことは、未来への何よりの宝となろう。
 
 ちなみに、私の創立した関西創価学園も、サマーセミナーを鳥取で行っている。国内最大級の反射望遠鏡のある佐治村での天体観測、また紙すきの実習など、地元の方々と交流しながら、生きた学問を学ぶ絶好の機会である。
 
 日本のふるさと鳥取には、私も青春時代から幾たびとなく訪れてきた。かねてより、私は、この天地の光彩は「山陰」よりも、むしろ「山光」と呼ぶにふさわしいと思ってきた。美しい自然と豊かな文化に恵まれた鳥取は、日本はもちろん、北東アジアの青少年の教育交流の拠点として、いよいよ輝きを増していくに違いない。

 これまで私は、中国、ロシア、韓国の識者とも対談集を発刊してきた。
 
 現在は、モンゴル国立文化芸術大学のツェデブ学長と対談を重ねている。その学長の言葉に、「モンゴルを草原抜きに考えることができないように、日本も海を抜きにして考えることができないのではないでしょうか」とあった。

 まさに鳥取の方々が大切に温めてこられた「環日本海」の視点こそ、これからの日本に欠かせないものだと思う。日本海は二十一世紀の「民衆の大交流の内海」である。

 一昨年、再会したゴルバチョフ・元ソ連大統領も、日本海沿岸の都市との交流の進展を喜ばれるとともに、「状況が変わるかどうか。それは、協力しあう心の広がりによって決まる」と語られていた。
 「新しき 年の始の 初春の 今日 降る雪の いや重け吉事」

 ご存じのように、鳥取で大伴家持が詠んだ、「万葉集」の最後を飾る和歌である。

 新しき一年、万葉のロマン薫る鳥取から、希望に満ちた平和と友情の讃歌が、北東アジアへ高らかに響きゆくことを、私は祈ってやまない。


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